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Jason Wynn McAteer

"I'm Peter Pan" - Jason McAteer

Jason McAteer's Mini Bio reffered to "World Soccer Digest", Oct 1997

Sorry for this page Japanese only,
but if you're looking for some pictures of Jason, please visit the following pages
http://www.geocities.com/superblackcats/mcateerphotoes/mcateerpix.html
and
http://www.geocities.com/superblackcats/mcateerphotoes/mcateerpix.html


おことわり

もしくは

ワールド・サッカー・ダイジェスト誌1997年10月/11月号とマッカさんに感謝の意をこめて

このページは、当ページにいらっしゃる、 マッカさんの送ってくださった、
ワールド・サッカー・ダイジェスト誌1997年10月号、 「ジェイソンは羽ばたいた」の記事を元に構成されています

この内容の著作権はワールド・サッカー・ダイジェストに帰属するのは言うまでもないことです。
ついでに管理人は、当該雑誌より、この内容のとりあえずの使用のお断りを雑誌社まで入れてきましたし、
無断引用はとにかく禁止です。
ちなみに、白字の部分は、同記事からの直接引用となっています。
薄い灰色の字は、WSDを参考とした管理人の説明文です。
濃い灰色の字は、管理人のどーでもいいツッコミです。

もし、無断引用を発見した場合は、探し出して埋めます。ついでにチクります(^^;)



とゆーわけで、後編。








『ジェイソンは羽ばたいた』後編
ワールド・サッカー・ダイジェスト誌1997年11月号




フル代表とB代表迷いはすぐ晴れた


国籍はEnglandであり、かつ、イングランドはバーケンヘッド育ちの彼には、 当然のごとくイングランド代表としての資格があった。

「アイルランド代表のJ・チャールトン監督(当時)がジェイソンに接触を試みたところ、イングランド代表のセレクターを務めていたアームフィールドもバーンデン・パークに赴き、イングランドB代表入りをアプローチしていたのだ。」

ジェイソンには苦悩の選択が迫られる。
しかし、そんな状況を打開したのは、ジャッキー・チャールトンの一言だった。

『イングランドから誘われているらしいね。もちろん、キミが選べばいいんだよ。でも、わたしはアイルランドのフル代表として、5月にランズダウンで行われるロシア戦に、ジェイソン、キミに出てほしいんだ』

さらにダメ押しに、現在もジェイソンが「父親のような人だった」と述懐する、 当時のボルトン監督、ブルース・リーオクの助言もまた、ジェイソンの迷いを晴らしたようだ。
ジェイソンは当時を振り返る。

『ブルース(リオク)は的を得た貴重なアドバイスを、何度かくれたんだ。彼もイングランドとスコットランドの両方からアプローチされた経験があったんで、僕の気持ちがわかったんじゃないの』



こうして、ジェイソンは、1994年のロシア戦で、アイルランド代表としてデビューし、 やがてアメリカで行われるワールド・カップのアイルランド代表の一員となる。
そして、彼が迷いぬいたイングランド代表は、94年のワールド・カップ出場を逃してしまうという、 なんとも皮肉な結果が待ち受けていたのである。

以下は同誌の記事の引用である。

もっとも、ジェイソンがイングランドを選んでいたら、ガスコイン、インス、プラットといった錚々たるメンバーとともに、中盤の一角を構成した可能性もある。

『そりゃそうかもしれないけど、イングランド代表に入る気なんか全然なかったんだよ』

 ロシア戦でデビューを飾ったジェイソンは、その後”奇跡の勝利”といわれたドイツ戦、 オランダ戦と、順調にキャップを獲得していった。

よくもまぁ、94年だけじゃなく、2002年まで奇跡に絡んでくれたもんだ (注:管理人はオランダファンです)

なぜここで自分が戦っているのか!?


「ジェイソンはアメリカ・ワールドカップのイタリア戦(アイルランドの初戦) も途中出場したが、初の大舞台という緊張感のせいだろうか、 なぜ自分がここで戦っているのか、信じられなかったそうだ。

本人によるとホートンがバレージのクリアを奪ってシュートを決めたこと、 みずから攻撃参加してマルディーニをかわし、クロスを上げたことを除くと、全く記憶にないという。

試合後、
「俺はマルディーニにタックルしたんだ!」と言ったところ、周囲(多分プレス)に、
「それはマルディーニやない、バッジオや!
と物笑いのタネになったとゆーネタは あっちに書きましたよな。


キーン、タウンゼント、オルドリッジ、ストーントン、そしてボナーのように経験豊かで、 アイルランド国民が誇るに値するメンバーとともにプレーしたジェイソンは、 アイルランドはもっと上位に進出できたと、いまでも固く信じている。

『僕たちには運がなかったんだ』


アイルランドは、オランダに、ミスで負けたのだった。

「彼の脳裏にはボナーの姿が浮かんでいたに違いない。
オランダ戦でヨンクが放った30bのロングシュートの処理を誤り、 オランダに2点目を、アイルランドに敗退の文字を突きつけてしまった、慰めようのないボナーの姿が……。

『パッキー(ボナー)はホテルに戻るバスのなかでも泣いていたし、翌日の帰りの飛行機のなかでも泣きっぱなしだった。どうしようもなかったよ。なんて言葉をかけていいのか、わからなかったんだ』」


さらに、オランダは、再びアイルランドの前に立ちはだかる。 オランダに対する敗戦のために、ヨーロッパ選手権の出場を逃したのだ。 絶望的な状況にあって、マケドニアにまでにも敗戦を喫し、 鬱憤でもたまっていたのだろう。

さらに、当時イングランド代表監督であった、テリー・ベナブルズには追い討ちのように、

『キミも出られたかもしれないのに』

といわれたそうで、このEuro1996の出場権を取れなかった出来事は、
『一番悔やまれる出来事』
そうである。だが、こうも語っている。

『さすがにちょっと考え込んでしまった。でも、たったの10分だけね。
 アイルランド人として世界に挑戦したっていう事実は、 何物にも代えがたい経験じゃないか。確かにヨーロッパ選手権は予選で負けた。
 だけど、もしイングランドを選んでたら、ワールドカップには出られなかったんだ。』


ジャッキー・チャールトンの後任の代表監督には、アメリカ大会でチームメイトであった、 ミック・マッカーシーが選出された。ジェイソンは、マッカーシーに対してこうコメントする。

『ミック(マッカシー)は自分のやり方を貫こうとしている。ウイングバッグを効果的に使った、 近代的なスタイルの確立なんだ。古典的な4バックのラインディフェンスじゃ、国際舞台で勝つのは無理だよ』

あんま、マッカーシーって、近代的ってカンジしないんすけど・・・(汗)
さて、以下の↓WSDの記事にみんなで「そもそも(略)」というツッコミを入れましょう。

「もしジェイソンがアメリカ大会から少しでも進歩を遂げているとしたら、98年フランス大会のアイルランドは、グループリーグで姿を消したりはしないだろう。」

兄さんは、ランズダウンにおけるマケドニア戦、3-2でマケドニアに負けて頭に血が上ったらしく、なんとロスタイムで、 相手の喉に一発ハイキックを決めて一発退場を食らって FIFA裁定モンの大騒ぎを起こしております (余談)。



コップの大声援は想像を絶する凄さ


さて、そんなジェイソンは、多くの目をひきつけた。 残留を賭けていたボルトンはジェイソンを売りたくない。 だが、そこには、断りきれないようなオファーが次々と舞い込んだ。

それでも95年のコカコーラ・カップでリバプールに1−2と敗れた後、 ローバーズ(ブラックバーンです)から「DFスタッブスとパックで900万ポンド」という オファーが舞い込んできたりもした。だが、そこにアーセナルとリバプールが参入。弱小ボルトンの立場は弱い。

特に、当時アラン・シアラーを擁し、プレミア・リーグを制し、S・S Forceと名高い ブラックバーンは特に熱心であった。しかし、根っからのマージーの赤いサポ、 ジェイソンは、アイドル、ダルグリッシュの説得に揺れながらも、心は 既にリヴァプールにあったようだ。

「ジェイソンは当時の監督だったダルグリッシュと、 3時間にも及んで話し合っている。
しかし、ジェイソンが『リバプールとの交渉が順調に進んでいる』と正直に告白すると、 ダルグリッシュの表情が曇ったという。

『僕がリバプールと交渉してたことを、ケニーは知ってたと思うよ。それでも彼は誠意を持って話してくれた。だから、悪いことをしちゃったな。彼は僕を高く評価しててくれたから、ローバーズに移籍するのも悪くなかったんだ。でも、僕にとっては彼が、ケニー・ダルグリッシュがリバプールなんだよ。僕も彼みたいにリバプールでプレーしたかった。突き詰めて言えば、彼のようになりたかったんだ』」

で、さすがレッズサポのジェイソン、アーセナルのことなぞ、鼻もひっかけなかったらしい。

「当時はリバプールとともに、アーセナルもジェイソンに興味を示していた。 しかも恩師リオクが監督だった。しかしジェイソンは、 ハイバリーに行くことはまったく考えていなかったようだ。

『僕はブルースに電話して、ジイさん、悪いけど僕はリバプールに行くから、 って伝えたんだ。
そうしたら彼はこう言ったんだ。
わかってたよ、小僧。わたしはおまえの気持ちがどこにあるか、ちゃんと知ってたさ。
だけど、わたしにだって試すチャンスくらいはあってもいいだろ。そうじゃないか』」

こうして、1995年9月、ボルトンから4.5millionポンドでリヴァプールへと移籍する。 リヴァプールから声がかかった瞬間から絶対リヴァプール行きは決めてたんだろとしか思えない ジェイソンだったが、念願のコップ・エンドの声援を背にすると、さすがにビビったらしい。 初出場の感想をこう語る。

『もう、驚いたよ。ローバーズ戦のラスト10分に、 ジェイミー(レドナップ)と交代で入ったんだけど、 そのとき大勢の人が狂ったように僕の名前を叫んでたんだ。 10分立っても鳥肌が消えなかった。そこから動きたくなかったくらいだ。 だれかが僕をピッチのなかに引きずり込んでくれたけど、初めてコップのパワーを感じたよ』

こうして憧れのリヴァプールでの生活が始まったが

しかし、アンフィールドのドレッシングルームの雰囲気に完全に溶け込むまでには、 もう少し時間が必要だった。 ほんの些細な冗談でも徹底的に攻撃される……それがアンフィールドのドレッシングルームである。

『最初はあそこの空気に馴染めなかったね。 だけど、今じゃ僕もスカウサー(リバプール訛りの英語)を話すからね。とにかく、彼らと一緒にプレーしてるだけなのに、ずいぶん頭の回転が速くなったし、ズル賢くなったみたいだよ(笑)。ただ、僕はあくまでも勝つためにリバプールに来たんだ』



チーム内の競争は激しいほうがいい


移籍してから約1年後、ジェイソンは右サイドのレギュラー・ポジションを掴む。 スタメンを取ったときのご本人の回想ナリ。

『ロビー(ロブ・ジョーンズ)が出場停止になってたとき、 ウイングバックとしてスタメンに起用されたんだ。
あのころはイライラしてたよ。チームのムードになかなか馴染めなかったからね。
だからスタメンに入ったときは、それまでのウップンをすべて吐き出してやろうって決めてたんだ。
で、ゴールに絡めたし、最高の気分だったよ。もちろん、守りも悪くなかった。
まあ、ちょっと前がかりになりすぎてたから、 全体のバランスは崩しちゃったかもしれない。
だけどロイ(エバンス監督)には怒られなかった。
きっと、放っておけ、ジェイソンはいい気分なんだから、 って思ってたんじゃないかな』

この頃のリヴァプールのオフィシャル・ビデオなんか見ると、 ブ○だらけの今のリヴァプールからは想像もつかない、かなり頭の悪い超美形の特攻チーム(失礼)で、 楽しすぎて頭痛します。ロイ・エヴァンスの放任に乾杯!

ベルガー。 レドナップ。 マッカwithマカティア兄さん。

負傷の影響もあり、この1〜2シーズンのジョーンズは精彩を欠き、 リバプールの右ウイングバックはジェイソンで決まりだった。 しかし、ジョーンズもイングランド代表のキャリアを持つ実力者で、 一時は確固たるレギュラーだった。そう簡単に引き下がるはずがない。 そして今シーズン(97-98)、 ふたりの立場は逆転した。レギュラーはジョーンズ、 ジェイソンは控えに落ちている。

『べつに油断したわけじゃないよ。それにまだ勝負がついたわけでもない。確かにロビーは強敵だけど、チーム内の競争は激しいほうがいいに決まってるじゃない。ユナイテッドだって、代表チームの選手がベンチに座ってたりするからね』





    〜あとちょっとだけつづく。

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